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我に返り、立ち上がる [メッセージ]

 『しかし、我に返ったとき彼は…』(新約聖書・ルカの福音書15章17節)
 『こうして、彼は立ち上がって…』(新約聖書・ルカの福音書15章20節)

 プロテスタントの信仰に立つ私にとって、カルヴァンは特別な存在だ。カルヴァンに学んだことは数え切れず、これからも学び続けていきたい。そして、いわゆるカルヴァン神学、改革派、長老派(このようにひとまとめにするのは乱暴かもしれないが)の書籍、説教から私はたくさんの刺激と新しい視座をいただいてきたと感謝している。
 一方、私はアルミニアン・ウエスレアンの看板を掲げる神学校で、学ばせていただいた過去を持つ。この時期、ここから受けた影響もまた計り知れない。
 もともと、優柔不断な性格だが、私は自分の立場を「カルビニウム主義」などと誤魔化し、超教派の宣教団体で働いたりしていたが、カルヴァンが主張した「絶対的な神の主権」もウェスレーが唱えた「罪人である人間に対して働く聖霊の先行的恩寵」も共に深い真理であると考えている。
 このブログで神学論争をする気持ちはサラサラ無い。だから、質問状のようなコメントを残されると困ってしまう。と予防線を引いて好き勝手なことを述べさせてもらうが、カルヴァンが言うように、全く堕落してしまった人間の側に神を求める可能性は無いと思う。神に立ち返る時に、それは100%神の働きによるものなのだが、深い確信を得る恵みの手段として「自らが」という感覚が与えられるのはないか?というのが、ルカ15章の「放蕩息子」の記述からの私なりの解釈だ。こんな解釈をすると、「結局、お前はアルミニアン」と判断されてしまうのかもしれないが、別にカルヴァン派の人と論争する気はないし、カルヴァンに対する(カルヴァン神学に立脚する人たちも含めて)尊敬はいささかも変わることはない。
 この聖書の言葉から、教えられていることは、自分の方から歩みだすことの重要性。今まで、なんとなく流れに乗っていることを、導きなどと言って正当化してきたことは否めない。過去の判断の全てを否定する気持ちは無いが、人に勧められたこと、誘われたこと、責任の半分を声をかけてくれた人たちに背負わせるように選択してきた。今は「我に返り、立ち上がる」新しい一歩を選ぶように、神に問われているように、放蕩息子の記事が迫ってくる。


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