足を洗い合う [メッセージ]
『それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。』(新約聖書・ヨハネの福音書13章14節)
ある教会では「洗足式」なるプログラムがあるらしい。私は経験がないが、興味深い。イエスが弟子達の足を洗うという場面。そもそも奴隷の仕事をイエス自ら行なったということから、「たがいに仕えあう」という解釈がなされることが多い。
この聖句で、私の心にとまったのは「足を洗い合うべき」というイエスの奨めである。「足を洗ってあげるべき」ではなく「足を洗い合うべき」とイエスは奨めた。実際、この記事の中では足を洗い合ってはいない。一方的にイエスが弟子達の足を洗ったのだ。しかし、イエスの奨めは「洗い合う」ことだった。
洗い合う場合、「洗ってあげる」側と「洗ってもらう」側が存在する。この二者、どちらの立場の方が受け入れやすいだろうか?洗足式が興味深いと思うのは、この二者の立場を体験できるからだ。私にとっては、「洗ってもらう」側のほうが抵抗がある。学生時代に身体にハンディキャップのある人たちを入浴させるというボランティアを行なったことがある。やる前は抵抗があったが、いざやってみると案外できるものだ。
足とは体の中でも汚い部分だ。洗ってもらうとは、その汚い部分を見られてしまい、触られてしまうということだ。こちらの方が私には抵抗が大きい。しかし、イエスは洗ってあげるだけではなく、洗ってもらう立場にもなりなさいと言われた。
ここに、「愛を残るところ無く示された」(ヨハネ13章1節)というイエスの愛の姿につながるメッセージがあるのではないかと私は考える。それは、恥ずかしい、知られたくない、汚らしい、まさに足のような本当の姿を受け入れあうことが本当の愛の交わりであるということではないだろうか?弟子達が、そして、今日の教会がこのような、足を洗い合うような、知られたくないような本当の姿を、認め合い、補い合い、受け入れあっていくような愛の交わりを具現化していくことを、イエスは足を洗いながら教えられたのではないかと、私は考える。
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