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but some doubted [メッセージ]

 『そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいてきて彼らにこう言われた。』(新約聖書・マタイの福音書28章17・18節)

 マタイの福音書の最後は「大宣教命令」として有名だ。『それゆえ、あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。』というのは大切な言葉だが、今日の福音派の教会が宣教拡大のスローガンのように用いているように初代教会も解釈していたかは疑問だ。使徒の働きやパウロの書簡には、この聖句の引用は見られない。だからと言って、マタイの御言葉が色あせることはない。
 イエスは、この有名な「大宣教命令」を疑う者たちに語ったとマタイの記述から読み取れることができる。と言っても、この日本語は難しくて(英語の聖書も読んだけど英語力が乏しくて)ちょっと自信がない。
 明らかのことは、11人の弟子がイエスに指示された山に登りこの言葉を受けたということ。では、疑ったとマタイが記した「ある者」とは誰なのか。三つの仮説が成り立つと思う。

 ①11弟子はイエスを礼拝したが、ここにはいない弟子の中には疑う者がいた。
 ②弟子の何人かは礼拝したが、礼拝しない疑う弟子もいた。
 ③11人は礼拝したのだが、中には疑っているものもいた。

 ①は、マルコの記事と照らし合わせると整合性はある。ただ、マルコの15章は後半部は存在しない資料も多いため、マタイの記事の方が信憑性が高い。そして、マタイがこの部分に疑う者に触れていることを考えると、11人の弟子以外と考える方が不自然のように思える。
 ②は日本語としては読み取りやすいが、礼拝しないほど強く疑っているなら、イエスの指示にしたがって山に登ることが不自然に思えてくる。
 ③私はこの状況が一番ありえるのではないかと考えている。

 註解書を数冊調べれば、容易に答えが見つかると思うが、聖書だけを読んで、想像力を働かせることを近頃は大切にしたいと思っている。(調べるのが面倒くさいだけとも言えるけど)

 イエスが「大宣教命令」を、疑いながら礼拝するような弟子に託されたのだとしたら、そして、そんな弟子に「世の終わりまでともにいる。」と約束されたのなら、この命令と約束に私は救いを確信する。疑いながら礼拝しているような信仰者こそ、まさに私の姿だ。そして、ほとんどの信仰者の姿ではないだろうか?そうであるなら、この命令も約束も私にとってかけがえの無い言葉だ。


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