赦されてきた歴史 [メッセージ]
『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。』(新約聖書・エペソ人への手紙1章7節)
教会の祈祷会が終わり、雑談をしていたら夕方のニュースを見たか、とたずねられた。勤務中だったので当然、見ていないのだが、どうも、キリスト教の伝道師が出会い系サイトで知り合った中学生に淫らな行為をし逮捕されたということが報道されていたらしい。にわかに、雑談の場は不安な空気に包まれ、教会が白い目で見られるのではという懸念の声が上がった。
正直、私はあまり驚かなかった。というより、その場にいたほかの人に比べて落胆していなかった。確かに、大変、残念な事件であり、被害者のことを思うと胸が痛い。でも、「教会の伝道師が、何故!?」という思いにはならない。
罪を犯した人の肩書きによってマスコミの扱いは変わる。学校の先生が、警察官が、キャリア官僚が、大学教授が、お坊さんが、そしてキリスト教の伝道師が!そしてニュースをキャッチした人は「なぜ?」「どうして?」と反応する。
しかし、どんな経歴や肩書きであろうと、聖書によればすべての人は罪人だ。罪人が罪を犯すのは言わば必然である。罪人だから罪を犯す。それが、学校の先生だろうが、キリスト教の伝道師だろうが、何の不思議もない。
確かにこの事件は教会にとってマイナスだろう。しかし、キリスト教が揺らぐことは全くない。キリスト教の歴史は完全無欠な聖人たちの歩みが形成してきたものではない。数え切れないほどの、どうしようもない罪人たちが悔い改めて、赦されたきた歴史こそキリスト教の歴史である。
逮捕された伝道師は28歳ということ。まだまだ、前途有望な青年だ。どんなに世間が断罪しても、赦されない罪はない。伝道師が罪を犯したということで教会の真価が問われるのではない。罪を犯した若者が、真の悔い改めと赦しの恵みの中で生きていくことができるか、教会がその場所になれるかという点で正統性が問われているのだ。キリストが全ての罪人を赦されたように、悔い改めと赦しの恵みがキリスト教の歴史を形成してきたように、現代の教会は試されている。
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