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ゆるすということ [メッセージ]

 『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』(新約聖書・エペソ人への手紙4章32節)

 ひろさちやという人がいる。仏教徒のライターでその著作数は400とも500とも言われる。わかりにくい仏教の教えや言葉を平易な言葉で内容を豊に伝えるという点において類まれなる才能の持ち主だ。その文才は尊敬に値する。

 古本屋で「仏教とっておきの話」という本を見つけて斜め読みをした。これは、日付が記してあり、毎日一頁読む構成になっている。キリスト教には、ページに日付があり一年間、毎日少しずつ聖書の言葉とそれに関する話を読むというタイプに本が数多く存在しているが、仏教にもあったらしい。どうやらこの本は季節単位になっているらしく、私が手にしたのは春の章だった。

 その中に「ならぬ堪忍、すぐが堪忍」という言葉が紹介されていた。意味は、我慢できないことをじっと我慢することが本当の我慢ということ。しかし、ひろさちやさんはあまりこの考えを支持していないとのこと。我慢をしていることが相手に伝わらなければ意味がないというのだ。そして、次のようなエピソードが紹介されいた。

 イタリアに留学していた日本人が節約のためにアメリカ人とルームシェアリングをしていた。二人の間にはいくつかの取り決めがあったが、アメリカ人は月に何度かデートの時に大幅に門限を破るらしい。ところが、日本人の留学生が一度門限を破ったら、アメリカ人がカンカンになって怒ったというのだ。そこで、日本人が「君だってしょっちゅう破っているじゃないか?」と反論すると「あの時、君は怒っていたのか?だったらなぜ言ってくれなかったんだ?」と聞き返されたという。

 そして、こんな言葉でまとめられていた。「つまり、我慢するということは相手をゆるしてあげること。」この一文は私にはあまりにも衝撃的だった。そして、「要するに堪忍なんて簡単にはできない。」とむすばれていた。

 私が幼い頃から教会で教えられてきたことは「愛することは相手をゆるすこと」だった。しかし、ひろさちやさんのとっておきの仏教の話では「我慢することは相手をゆるすこと」というのだ。しかし、ここに日本人のゆるしの概念が潜んでいるように思える。

 聖書ではゆるすということは「なかったことにする。」ということだ。要するにチャラ。だから、ゆるしたなら、その後、そのことが持ち出されることはない。ということになっている。しかし、実際には「ゆるした」と言っても何かにつけて、あんなことされるとは思わなかったと掘り返し「私、ゆるしてあげたんだからね」と念を押すようなやりとりがされているのではないだろうか?

 なぜ、そうなるのだろう?それは我慢してゆるしているからだ。こんなに我慢してゆるしたんだから、嫌味のひとつでも言ってやらなきゃ気がすまない、となるのも必然だ。クリスチャンだからゆるす、といっても実は仏教的(日本的?)に我慢してゆるしているケースが圧倒的多いのではないだろうか。しかし、それではゆるしても聖書的なゆるしではない。

 愛しているからゆるす。これは人の力では無理かもしれない。神の助けがあってはじめてできることではないだろうか。そういう意味では簡単にはできないことと言えるだろう。
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コメント 2

ななみ

またまたお久しぶりです(^^;)
「我慢することは相手をゆるすこと」って・・・そういう発想があったのかと
びっくりしましたが、ある意味非常に納得できました。
そもそも「ゆるす」の概念が全く違うんですね。
逆にとても新鮮に感じました。

関係ないですが・・・この春、私たちの教会では二人の姉妹が大学生になります。ふたりとも母教会を離れていきますが、K○○にぜひ関わって欲しいものです・・・
by ななみ (2009-03-03 21:23) 

しゅじ

こちらこそ、おひさしぶりです。この本はなかなか面白いです。まさに仏教版ディボーションテキスト(笑)。
大学に進学する教会の青年たち。是非、K○○で青春を謳歌してもらいたいものです。
by しゅじ (2009-03-04 23:34) 

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