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現代の預言者 [ひとりごと]

 伝道者は預言者的な役割を担っている。この預言者という言葉はちょっとムズカシイ。しばしば、予言者と区別される。「予」の場合は、未来のことを伝えるわけだが、ほぼマユツバ。予言者はほとんどは偽預言者である。「預」の場合は、未来のことを伝えることも含むが、神から預かった言葉を伝えることが生業である。
 この神から預かった言葉というのは、お告げのようなものと思われては困る。基本的に、神から預かった言葉というのは聖書66巻において完結している。数千年前に書かれた聖書の言葉を現代へのメッセージとして伝えるのが伝道者であり、その働きは預言者的である。
 預言者的というのは聖書的と言い換えることが可能かもしれない。毎週日曜日に教会の講壇で語られる説教は聖書的でなければならないし、それを語る説教者は現代の預言者のようだ。
 もちろん、講壇で語ることは預言者的な役割であると思うが、私が、最も伝道者が預言者的だと感じるのは、かつて、イスラエルの預言者たちが、自分の命を顧みず、神の意思から離れている王達に怯むことなく、愛を持って、その過ちを指摘し、悔い改めを促していったように、今日、どんな相手でも、どんな状況でも聖書的であることを愛と痛みを覚えながら、伝えようとすることだ。

 12歳の夏休みに出会った友人は、今、マスコミも注目するような、非常に大きな問題と正面から向き合っている。実は、向き合う相手は問題そのものは当然のことながら、この問題を生み出してしまった日本的キリスト教文化(?)と言って良いのかわからないが、もう、つかみどころのないような強大な相手でもある。そして、私自身もその文化の中に数十年もどっぷり浸かっている。
 具体的なことを書いていないので、何を言いたいのか、さっぱりわからないと思うが、私はその巨大な問題と対峙している古い友人を誇りに思う。彼は、現代の預言者だ。

 地方都市の小さな教会の手伝いをするようになって2年近くになるが、小さな教会なのに、問題は絶えず発生する。一番、エネルギーを使うのは、聖書的ではないことを決断し、それを実行することを伝えに来た人と向き合うことだ。相手はもう、答えを決めている。私が「わかりました。」ということを待っている。そうしたならば、とりあえず、その人とは良い関係でいられるだろう。話のわかる人で良かったと気に入ってもらえるかもしれない。そう思ってもらいたい誘惑もある。今回は見逃してあげて、次からはきちんと説明すれば、今回よりも伝わるかもしれないと思ったりもする。
 でも、聖書の預言者は誰もそんなことはしない。だから、私も、嫌われても、嫌がられても、恨まれても、聖書が言っていることを伝えなければならない。愛を持って。
 この小さな教会で発生する問題と、友人が対峙している問題は深刻さが違う。しかし、本質的なことは同じことだと思う。だから、友人と同じように、私も聖書的であることを絶対にあきらめないで伝える。私も、小さな現代の預言者なのだから。
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