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His father. [メッセージ]

 『ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしてます。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。』(新約聖書・コロサイ人への手紙1章24節)

 彼の父親が呼吸困難に陥り、集中治療室で予断を許さない中にある。毎日、祈っている。気がつくと、彼のことを思い出し、彼の父親のことを考えて祈っている。

 僕は彼と中学一年生の夏休みに出会い、14歳のクリスマスに一緒に洗礼を受けて、お互い紆余曲折を経て伝道者として歩んでいる。

 僕は彼の父親のことも知っている。中学生のときも高校生の時も何度も、彼の家に泊まり行っているので車で送ってもらったり、一緒に食事をしたりしたこともある。彼の父は絵を描く。その絵の話を聞いたこともある。でも、僕は、僕が知るはずもない彼の父親のことを知っていた。それは、彼の父親が彼の家庭の不和を生み出したことが彼が信仰に至るきっかけとなったことを聞いていたからだ。もちろん、そんなことを僕が知っているなんて彼の父は知る由もない。あの頃、僕は大人の秘密を知っていることで、優越感を得たような、いやらしい気持ちで彼の家の居間にいたことを思い出す。

 だから、彼の証はドラマチックだ。彼のように劇的に自分の経験を語れることを、同じように語る仕事をする者としてちょっとうらやましいと思った時もあった。なにせ、私は普通の家庭で平凡に育ってきたので。

 でも、彼にとって父のことを語ることは苦しい作業でもあった。今なら私にもわかるが、でも、長い間気付かなかった。

 彼のメッセージに説得力があるのは、内容がドラマチックだからなのではない。そこにキリストの十字架が重なるからだ。愛と赦しが示され、またそのことを問われる。語る者も聞く者も。
 彼が父のことを苦しみを覚えながら語る時、それはキリストの苦しみの欠けたところを満たしているのだ。彼の心も、コロサイの聖書の言葉もやっと少しわかったような気がした。

 


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ゆるすということ [メッセージ]

 『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』(新約聖書・エペソ人への手紙4章32節)

 ひろさちやという人がいる。仏教徒のライターでその著作数は400とも500とも言われる。わかりにくい仏教の教えや言葉を平易な言葉で内容を豊に伝えるという点において類まれなる才能の持ち主だ。その文才は尊敬に値する。

 古本屋で「仏教とっておきの話」という本を見つけて斜め読みをした。これは、日付が記してあり、毎日一頁読む構成になっている。キリスト教には、ページに日付があり一年間、毎日少しずつ聖書の言葉とそれに関する話を読むというタイプに本が数多く存在しているが、仏教にもあったらしい。どうやらこの本は季節単位になっているらしく、私が手にしたのは春の章だった。

 その中に「ならぬ堪忍、すぐが堪忍」という言葉が紹介されていた。意味は、我慢できないことをじっと我慢することが本当の我慢ということ。しかし、ひろさちやさんはあまりこの考えを支持していないとのこと。我慢をしていることが相手に伝わらなければ意味がないというのだ。そして、次のようなエピソードが紹介されいた。

 イタリアに留学していた日本人が節約のためにアメリカ人とルームシェアリングをしていた。二人の間にはいくつかの取り決めがあったが、アメリカ人は月に何度かデートの時に大幅に門限を破るらしい。ところが、日本人の留学生が一度門限を破ったら、アメリカ人がカンカンになって怒ったというのだ。そこで、日本人が「君だってしょっちゅう破っているじゃないか?」と反論すると「あの時、君は怒っていたのか?だったらなぜ言ってくれなかったんだ?」と聞き返されたという。

 そして、こんな言葉でまとめられていた。「つまり、我慢するということは相手をゆるしてあげること。」この一文は私にはあまりにも衝撃的だった。そして、「要するに堪忍なんて簡単にはできない。」とむすばれていた。

 私が幼い頃から教会で教えられてきたことは「愛することは相手をゆるすこと」だった。しかし、ひろさちやさんのとっておきの仏教の話では「我慢することは相手をゆるすこと」というのだ。しかし、ここに日本人のゆるしの概念が潜んでいるように思える。

 聖書ではゆるすということは「なかったことにする。」ということだ。要するにチャラ。だから、ゆるしたなら、その後、そのことが持ち出されることはない。ということになっている。しかし、実際には「ゆるした」と言っても何かにつけて、あんなことされるとは思わなかったと掘り返し「私、ゆるしてあげたんだからね」と念を押すようなやりとりがされているのではないだろうか?

 なぜ、そうなるのだろう?それは我慢してゆるしているからだ。こんなに我慢してゆるしたんだから、嫌味のひとつでも言ってやらなきゃ気がすまない、となるのも必然だ。クリスチャンだからゆるす、といっても実は仏教的(日本的?)に我慢してゆるしているケースが圧倒的多いのではないだろうか。しかし、それではゆるしても聖書的なゆるしではない。

 愛しているからゆるす。これは人の力では無理かもしれない。神の助けがあってはじめてできることではないだろうか。そういう意味では簡単にはできないことと言えるだろう。
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幸せについて [メッセージ]

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。』(旧約聖書・箴言17章1節)

 懐かしい来客に、英国仕込のEnglish Breakfastを振舞った。そして英国にいた時に良く聞いた笑い話を思い出した。それは、「世界で一番の幸せとは」という話。世界で最も幸せなことは、日本人の妻を持ち、アメリカのサラリーで生活し、イギリスの家に住み、中華料理を食べるということ。そして最も不幸なことは、日本の家に住み、アメリカ人の妻を持ち、イギリスの食事を食べ、中国のサラリーで生活するということ。
 たいして面白くも無い笑い話だが、かつて私は、なんと幸せの三つまで当てはまる生活を送っていた。イギリスの家で、日本人の妻と中華料理を食べたのだ。そして、今日は、日本の家でイギリスの食事という不幸の半分を満たす生活。
 でも、イギリスのときも、日本で過ごす今も、私は幸せを満喫している。幸せというのは、聖書の通りだとつくづく感じる。
            イングリッシュブレクファースト.jpg
                  日本の家でイギリス料理を食す
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くすぶる燈心 [メッセージ]

 『彼は… くすぶる燈心を消すこともなく』(旧約聖書・イザヤ書42章3節)

 昨年、「石が叫ぶ」というイエス・キリストのメッセージに強い衝撃を受けたことを告白しブログを再開した。そして、昨年末、イザヤ書の中の「くすぶる燈心」という言葉が心に残った。この数年間、くすぶり続けていたような気がする。この「くすぶる燈心」とは自分のことだと思った。しかし、どんなにくすぶっていても、この小さな火種を主は消すことはないと言われた。この約束に残りの全生涯をかけてみることを再確認。

 数年ぶりに教会の教壇からメッセージを語らせていただくことになった。


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ドアをノックするのは誰だ? [メッセージ]

 『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。』(新約聖書・ヨハネの黙示録3章20節)

 いつからか、クリスマスソングというジャンルが確立し、一つのマーケットとなったようだ。アーティスト達にとってもクリスマスソングをヒットさせることが一つのステータスのようになっているようにも感じる。ほぼ、イエス・キリストとは関係ないクリスマスソングだが、でも、良い曲も数は少ないが無いわけではない。

 いつの間にか、ほとんどわたし達の前から姿を消したオザケンこと小沢健二のクリスマスソングは「ドアをノックするのは誰だ?」。「寒い冬にダッフル・コート着た君と 原宿あたり風を切って歩いてる♪」というフレーズは私の青春時代をトレースするようだ。話がそれた。私の青春時代は今回のテーマとは関係ない。
 「風冴える クリスマス 君の心の扉を叩くのはいつも僕さって考えてる」とオザケンは歌った。実に軽快で気持ちの良いサウンド。この後のオザケンの音楽活動を垣間見てる限り、今後こんなポップな曲は作りそうにないし、もう歌うことも無いのかもしれない。でも紅白に出場したオザケンを支持していたファンは、こんなオザケンのラブソングに共感していたに違いない。

 クリスマスに相応しいかはわからないが、ロマンチックな歌詞だと思う。驚くことに聖書を開くと、クリスマスにこの世に来たイエス・キリストも心の扉を叩いていると明記されている。心の扉をノックするのはオザケンのオリジナルではなかったのだ。なんと2000年も前にこの世に来たイエス・キリストはずーっと、世界中の人の心の扉をノックし続けている。これまた、ロマンチックなことだと思うのだが。

 「たぶん、素敵な日々がずっと続くんだよ。」というオザケンの歌詞と同じ願いを込めてメリー!クリスマス!!

 くどいようだけど、風冴える クリスマス 君の心の扉を叩くのはいつもJesusさ それ分かってる?
             
                    素敵なクリスマスになりますように!


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Change The Air [メッセージ]

 『いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神にでしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするなら、私はキリストのしもべとは言えません。』(新約聖書・ガラテヤ人への手紙1章10節)

 以前にも、ブログの中で触れたことがあったが、今年の新語・流行語の一つに「KY」(空気読めない)というのがあった。この背景には、空気を読める人は賢い人、イケテル人であり、空気を読めない人は困った人、ダメな人、嫌われ者という固定観念があるのではないかと思う。そして、あくまでも私の推測だが、特に若い世代の人たちは「KY」と言われないように、かなり神経質になっているのではないだろうか。今回はこの風潮に警鐘を鳴らしたい。
 
 「空気読めない」ということは大きく分けると二種類に分類できる。一つは、常識が無いということだ。以前より「TPOをわきまえて」と言われるように、状況を判断して適切に振舞うことの大切さは重んじられてきた。これは、本当に大事なことだ。これをわきまえていないと、笑われたり、恥をかいたりする。いや、その程度で済めば良いが、信頼を失ったり、ひんしゅくをかってしまったりする。セクハラ発言などが一つの例だ。このような点では「KY」になってはならない。
 もう一つは、「KY」にならないために、大多数の思想や価値観に妥協するということだ。「変だ」「おかしい」と感じても、波風を立てるのは良くないと妥協する生き方。私が警鐘を鳴らしたいのは後者の「KY」だ。
  
 新約聖書の中には実に強烈な人物や出来事が記されている。ある時、イエス・キリストに会いたいと重病の友人を担架で運んできたグループがあった。しかし、あまりの人だかりで家に入れない状況を見ると屋根に上り、天井の穴を空けて病人をイエスの前につり降ろした。私には彼らの行動は思いっきり「KY」のように思える。
 バルテマイという盲人は、イエスが近くにいるということを知ると「あわれんでくれ」と叫びだした。あまりの大声だったので大勢で黙らせようとしたが、さらに大声で叫び続けた。この人も「KY」では?
 上記のような例は福音書の中には枚挙にいとまが無いが、彼らに対してイエスは「お前ら空気読めよ!」と呆れたりするようなことは一度としてなかった。むしろ、彼らは受け入れられ、ある時にはその信仰を賞賛されている。現代の日本人たちが必死になって努めている「空気を読む」ということは聖書の中ではほとんど意味を成していない。彼らは人と人との間の空気は読めなかったかもしれないが、自分と神との間の空気を読んだのである。そして、大胆な行動に出たのだ。

 そして、イエス・キリスト自身はどうだったのか?当時の宗教的なリーダーであるパリサイ派の人たちが同じ場所にいることを知って、あえて、彼らを逆なでするような言動に出ている。これは、空気を読めなかったのだろうか?いや、イエスはたやすく空気を読んでいた。パリサイ派と衝突しないで波風を立てないことなど、どうすればよいか分かっていたであろう。しかし、イエスは空気を読みながらも、あえて、空気を壊したのだ。その結果はどうだったか?「イエスはKY」などと陰口を叩かれただろうか?そうではない。イエスによって新しい空気が送り込まれ、新しい価値観、新しい世界が生み出されたのだ。
 「空気を読み、空気を変える」。これこそイエスの生き方であり、「地の塩・世の光」としてのキリスト者の使命ではないだろうか?

 「KY」などという安易な流行語の背景に「空気を読めない」ことが最悪であるような印象を植え付け、「空気を破壊し、空気を入れかえる」というキリスト者の使命を骨抜きにしようとするサタンの巧妙な策略が見える。

 


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赦されてきた歴史 [メッセージ]

 『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。』(新約聖書・エペソ人への手紙1章7節)

 教会の祈祷会が終わり、雑談をしていたら夕方のニュースを見たか、とたずねられた。勤務中だったので当然、見ていないのだが、どうも、キリスト教の伝道師が出会い系サイトで知り合った中学生に淫らな行為をし逮捕されたということが報道されていたらしい。にわかに、雑談の場は不安な空気に包まれ、教会が白い目で見られるのではという懸念の声が上がった。

 正直、私はあまり驚かなかった。というより、その場にいたほかの人に比べて落胆していなかった。確かに、大変、残念な事件であり、被害者のことを思うと胸が痛い。でも、「教会の伝道師が、何故!?」という思いにはならない。

 罪を犯した人の肩書きによってマスコミの扱いは変わる。学校の先生が、警察官が、キャリア官僚が、大学教授が、お坊さんが、そしてキリスト教の伝道師が!そしてニュースをキャッチした人は「なぜ?」「どうして?」と反応する。
 しかし、どんな経歴や肩書きであろうと、聖書によればすべての人は罪人だ。罪人が罪を犯すのは言わば必然である。罪人だから罪を犯す。それが、学校の先生だろうが、キリスト教の伝道師だろうが、何の不思議もない。

 確かにこの事件は教会にとってマイナスだろう。しかし、キリスト教が揺らぐことは全くない。キリスト教の歴史は完全無欠な聖人たちの歩みが形成してきたものではない。数え切れないほどの、どうしようもない罪人たちが悔い改めて、赦されたきた歴史こそキリスト教の歴史である。

 逮捕された伝道師は28歳ということ。まだまだ、前途有望な青年だ。どんなに世間が断罪しても、赦されない罪はない。伝道師が罪を犯したということで教会の真価が問われるのではない。罪を犯した若者が、真の悔い改めと赦しの恵みの中で生きていくことができるか、教会がその場所になれるかという点で正統性が問われているのだ。キリストが全ての罪人を赦されたように、悔い改めと赦しの恵みがキリスト教の歴史を形成してきたように、現代の教会は試されている。


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but some doubted [メッセージ]

 『そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいてきて彼らにこう言われた。』(新約聖書・マタイの福音書28章17・18節)

 マタイの福音書の最後は「大宣教命令」として有名だ。『それゆえ、あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。』というのは大切な言葉だが、今日の福音派の教会が宣教拡大のスローガンのように用いているように初代教会も解釈していたかは疑問だ。使徒の働きやパウロの書簡には、この聖句の引用は見られない。だからと言って、マタイの御言葉が色あせることはない。
 イエスは、この有名な「大宣教命令」を疑う者たちに語ったとマタイの記述から読み取れることができる。と言っても、この日本語は難しくて(英語の聖書も読んだけど英語力が乏しくて)ちょっと自信がない。
 明らかのことは、11人の弟子がイエスに指示された山に登りこの言葉を受けたということ。では、疑ったとマタイが記した「ある者」とは誰なのか。三つの仮説が成り立つと思う。

 ①11弟子はイエスを礼拝したが、ここにはいない弟子の中には疑う者がいた。
 ②弟子の何人かは礼拝したが、礼拝しない疑う弟子もいた。
 ③11人は礼拝したのだが、中には疑っているものもいた。

 ①は、マルコの記事と照らし合わせると整合性はある。ただ、マルコの15章は後半部は存在しない資料も多いため、マタイの記事の方が信憑性が高い。そして、マタイがこの部分に疑う者に触れていることを考えると、11人の弟子以外と考える方が不自然のように思える。
 ②は日本語としては読み取りやすいが、礼拝しないほど強く疑っているなら、イエスの指示にしたがって山に登ることが不自然に思えてくる。
 ③私はこの状況が一番ありえるのではないかと考えている。

 註解書を数冊調べれば、容易に答えが見つかると思うが、聖書だけを読んで、想像力を働かせることを近頃は大切にしたいと思っている。(調べるのが面倒くさいだけとも言えるけど)

 イエスが「大宣教命令」を、疑いながら礼拝するような弟子に託されたのだとしたら、そして、そんな弟子に「世の終わりまでともにいる。」と約束されたのなら、この命令と約束に私は救いを確信する。疑いながら礼拝しているような信仰者こそ、まさに私の姿だ。そして、ほとんどの信仰者の姿ではないだろうか?そうであるなら、この命令も約束も私にとってかけがえの無い言葉だ。


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足を洗い合う [メッセージ]

 『それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。』(新約聖書・ヨハネの福音書13章14節)

 ある教会では「洗足式」なるプログラムがあるらしい。私は経験がないが、興味深い。イエスが弟子達の足を洗うという場面。そもそも奴隷の仕事をイエス自ら行なったということから、「たがいに仕えあう」という解釈がなされることが多い。
 この聖句で、私の心にとまったのは「足を洗い合うべき」というイエスの奨めである。「足を洗ってあげるべき」ではなく「足を洗い合うべき」とイエスは奨めた。実際、この記事の中では足を洗い合ってはいない。一方的にイエスが弟子達の足を洗ったのだ。しかし、イエスの奨めは「洗い合う」ことだった。
 洗い合う場合、「洗ってあげる」側と「洗ってもらう」側が存在する。この二者、どちらの立場の方が受け入れやすいだろうか?洗足式が興味深いと思うのは、この二者の立場を体験できるからだ。私にとっては、「洗ってもらう」側のほうが抵抗がある。学生時代に身体にハンディキャップのある人たちを入浴させるというボランティアを行なったことがある。やる前は抵抗があったが、いざやってみると案外できるものだ。
 足とは体の中でも汚い部分だ。洗ってもらうとは、その汚い部分を見られてしまい、触られてしまうということだ。こちらの方が私には抵抗が大きい。しかし、イエスは洗ってあげるだけではなく、洗ってもらう立場にもなりなさいと言われた。
 ここに、「愛を残るところ無く示された」(ヨハネ13章1節)というイエスの愛の姿につながるメッセージがあるのではないかと私は考える。それは、恥ずかしい、知られたくない、汚らしい、まさに足のような本当の姿を受け入れあうことが本当の愛の交わりであるということではないだろうか?弟子達が、そして、今日の教会がこのような、足を洗い合うような、知られたくないような本当の姿を、認め合い、補い合い、受け入れあっていくような愛の交わりを具現化していくことを、イエスは足を洗いながら教えられたのではないかと、私は考える。


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我に返り、立ち上がる [メッセージ]

 『しかし、我に返ったとき彼は…』(新約聖書・ルカの福音書15章17節)
 『こうして、彼は立ち上がって…』(新約聖書・ルカの福音書15章20節)

 プロテスタントの信仰に立つ私にとって、カルヴァンは特別な存在だ。カルヴァンに学んだことは数え切れず、これからも学び続けていきたい。そして、いわゆるカルヴァン神学、改革派、長老派(このようにひとまとめにするのは乱暴かもしれないが)の書籍、説教から私はたくさんの刺激と新しい視座をいただいてきたと感謝している。
 一方、私はアルミニアン・ウエスレアンの看板を掲げる神学校で、学ばせていただいた過去を持つ。この時期、ここから受けた影響もまた計り知れない。
 もともと、優柔不断な性格だが、私は自分の立場を「カルビニウム主義」などと誤魔化し、超教派の宣教団体で働いたりしていたが、カルヴァンが主張した「絶対的な神の主権」もウェスレーが唱えた「罪人である人間に対して働く聖霊の先行的恩寵」も共に深い真理であると考えている。
 このブログで神学論争をする気持ちはサラサラ無い。だから、質問状のようなコメントを残されると困ってしまう。と予防線を引いて好き勝手なことを述べさせてもらうが、カルヴァンが言うように、全く堕落してしまった人間の側に神を求める可能性は無いと思う。神に立ち返る時に、それは100%神の働きによるものなのだが、深い確信を得る恵みの手段として「自らが」という感覚が与えられるのはないか?というのが、ルカ15章の「放蕩息子」の記述からの私なりの解釈だ。こんな解釈をすると、「結局、お前はアルミニアン」と判断されてしまうのかもしれないが、別にカルヴァン派の人と論争する気はないし、カルヴァンに対する(カルヴァン神学に立脚する人たちも含めて)尊敬はいささかも変わることはない。
 この聖書の言葉から、教えられていることは、自分の方から歩みだすことの重要性。今まで、なんとなく流れに乗っていることを、導きなどと言って正当化してきたことは否めない。過去の判断の全てを否定する気持ちは無いが、人に勧められたこと、誘われたこと、責任の半分を声をかけてくれた人たちに背負わせるように選択してきた。今は「我に返り、立ち上がる」新しい一歩を選ぶように、神に問われているように、放蕩息子の記事が迫ってくる。


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