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禁じ手はない [メッセージ]

 『すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。』(新約聖書・Ⅰコリント10章23節)

 大学を卒業して最初に勤めた会社では、ずいぶんクリスチャンであることをからかわれた。それも、今となっては良い経験だったと思える。私が年を重ねたせいか、それともかつてキリスト教関係の仕事をしていたせいか、今の職場でからかわれるということは、まだ経験していない。ただ、それとなく気になるのか、単なる話題づくりなのかは定かではないが、色々と質問されることがある。

 この前はこんな会話をした。
 「あのさー、キリスト教って勝手にHしたりするのって、やっぱダメなんだろ?」
 「それって、不倫とか強姦ってことですか?」
 「うん、まぁ。」
 「キリスト教じゃなくても、ダメなんじゃないですか?」
 「いや、そうじゃなくて、ソープランドに行ったりするのってキリスト教ではダメなんだろ?」
 私はちょっとだけ考えて
 「それはダメですね。」
 と答えた。
 そこで、その話題は終わった。

 その後、この会話が頭から離れない。職場の人が本当に聞きたかったことは何だったのだろう?意味のない会話だったのかもしれないし、私が女遊びをしているか探りたかったのかもしれないし、もし自分がキリスト信者になったらソープランドで遊んでも良いか聞きたかったのかもしれないし、全然違うことだったのかもしれない。
 ただ、この質問はとてもユニークだった。二十代の頃の私はもっと潔癖だったので「くだらないことを聞きやがって!」と嫌悪感を示していたかもしれない。でも、今の私にはこの質問はユニークだ。そして、適当に答えてしまた自分に腹立たしい。
 私の答えは教義的には間違っていない。「姦淫してはならない」という聖書の言葉もあるし。でも、宣教論的には良かったのだろうか?私の答えを聞いてきっと、職場の人はキリスト教と自分は遠い関係だと思っただろう。いくら教義的に正しくても、これでは宣教は前進しない。
 そもそも「~するのはダメなんですよね?」という問いに日本人の宗教観がにじみ出ている。基本的に宗教とは禁じ手で縛るものだ。人間を厳しく監視する恐い神様だ。職場の別の人が「犬は好きなんだけど、うちはお稲荷さんだから狐とケンカするので犬は飼えないんだ。」と言っていてビックリした。とにかく、宗教に属するとできないこと、してはいけないことが増える。そう考えている日本人は多い。特に、カルトは様々な禁じ手を設けてマインドコントロールする。根本的にキリスト教はそうではない、ということを伝えなければならない。

 せめて 
 「意外に思うかもしれませんが、基本的にはキリスト教にはしてはいけないことって無いんですよ。まぁ、しいて命令されていることと言えば、愛する、ということかな。だから、大切なことは妻を愛するということが一つですね。もし、ソープランドに行ったら奥さんはどう思われます?喜ぶってことはないですよね。だから、キリスト教だからソープランドに行ってはいけないということでは無いのですが、それは、妻を愛することと相反するので行かないってことですね。」
 とか
 「クリスチャンにとって大事なことの一つは尊敬される親になるということですね。私がソープランドに行っていることを年頃の娘が知ったら、父として尊敬してもらえるでしょうか?キリスト教だからソープランドに行かないという考え方ではなく、娘に尊敬される父でありたいので、そういう所には行かないんですよ。」 
 くらいの答え方をすれば良かったと反省。

 でも、またきっと何かのチャンスはある。そして、こんな会話からでも宣教は拡大するはず。それが今の私の使命。これは、これでなかなか楽しい。
 


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千の風にはなりたくない [メッセージ]

 『わたしの父の家には住まいがたくさんあります。』(新約聖書・ヨハネの福音書14章2節)

 職場では一日中FMが流れている。すると何度も流れてくる歌がある。「千の風になって」が何度職場のスピーカーから流れてきたか知れない。昨年の紅白歌合戦で放送されて以来、反響を呼び、クラシック音楽としては初のオリコンチャート1位を獲得するという快挙を成し遂げたという。この歌にまつわるドキュメンタリー番組もオンエアされていた。
 この歌が多くの人の心を捉えた理由はなんだろうか?この歌に慰められた遺族がたくさんいたということだろう。幸いにして、私は両親も健在で、本当に身近な人との死別ということを、まだ経験していない。しかし、ほとんどの人が「遺族」という立場になる。それが人生だ。この歌のヒットの背景を、少し斜めから見てみるなら、慰められていなかった、慰めを求めていた遺族がたくさんいたということがいえるだろう。
 歌には大きな力があり、そして、歌が人を慰め、癒しているのであれば、それは素晴らしいことだと思う。
 風のように、いつも、気がつかないときも近くにいてくれると思うことが、愛する人を失った、たくさんの人たちを慰めたということだ。
 でも、ちょっと考えて欲しい。本気で想像してみて欲しい。自分が死んでから、千の風のように、この地上をさまようようなことを、本当に望むだろうか?そんな浮遊霊のようになることが良いことだろうか?本当に千の風になったら、いつまでも漂うだけの千の風になってしまったら、果てしなく虚しいことではないだろうか?私は千の風にはなりたくない。私の大切な人たちにも千の風になって欲しくない。
 「真の宗教は死後の問題を解決し、生きる意味を教える。」これは私の神学校の恩師の言葉だ。聖書は「父の家には住まいがたくさんある。」と約束し、キリストは「あなたがたのために場所を備えに行く」と言われた。私は千の風にはならない。父の家で、この地上で死別した大切な人たちと永遠に再会することが慰めである。
 


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J.BOYな帰り道 [メッセージ]

 連日の残業と日曜出勤でクタクタだ。帰り道、車の中でFMからは浜田省吾の「J.BOY」が流れてくる。日本の平均的労働者の喪失感というか失望感というか虚無感というか、そんな感じのモノを歌い上げたハマショーのスタンダードナンバーだ。
 いまやJリーグなど、日本を表す意味で「J」と表記するのは珍しくもないが、日本を「J」と表現したのは内村鑑三以来と思われ(本当か?)、そのセンスは先駆的だった。
 浜田省吾のいうアーティストは、日本では数少ないロックンローラーと呼べるアーティストだと思う。ロックというジャンルの音楽をやっているミュージシャンはおつりが来るくらいいるけれど、メロディにメッセージをのせられるアーティストはごく僅かだ。
      
 「J.BOY」は1986年に発表された同タイトルのアルバムの鍵となるナンバーだが、2枚組みというボリュームで発表されたこのアルバムを、学生時代、90分テープに落として車の中でよく聴いていた。数年前、中古CDショップでやたらとキレイなCDが安く売られていたので衝動買いしたら、1999年に新録されたというバージョンでちょっとガッカリした。この新録アルバムはファンの間ではどんな評価なのだろう?
 「掲げてた理想も今は遠く」「守るべき誇りも見失い」と歌うハマショーの歌声は家路につくプロレタリアートの心に沁みるのだ。数え切れない日本の労働者たちが、この歌に自分を重ねたのだろう。疲れ果てた日常にわけもない怒りを覚え、恋人を抱いても、バイクを飛ばしても満たされないJ.BOY。しかし、浜田省吾は「打ち砕け、日常ってやつを」「乗り越えろ、悲しみってやつを」「受けとめろ、孤独ってやつを」「吹き飛ばせ、虚しさってやつを」と歌い、全国のJ.BOYへの応援歌としてメッセージを送り曲はフェイド・アウトしていく。
 実にストレートな叫び。これぞロックだ。でも残念ながらハマショーの歌で元気になれても、根本的に日常、悲しみ、孤独、虚しさを福音抜きに解決する道は無い。だから、この真実な叫びを無視してはいけないのだ。


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innocentじゃない [メッセージ]

 『悪を行なうものに対して腹を立てるな。』(旧約聖書・詩篇37篇1節)

 今朝読んだ聖書の言葉。今日の社会正義に対して逆説的な言葉だ。新聞紙面はここ数日不二家事件を扱っている。確かに不二家の不正は忌忌しき出来事である。きちんとした原因の究明や再発防止がなされなければならない。
 しかし、ここ最近の報道や世論は、失敗に対して、この時とばかり徹底的に叩きまくるという姿勢に思えるのは私が甘いのだろうか?
 不正は、当然いけないことであるが、しかし、失敗をしてしまうのが人間であり、社会は過失を前提に成り立っている。失敗に対して、攻撃する事は簡単だ。しかし、容赦なく攻撃できるほど、みんな正しいのだろうか?少なくとも、私はそんなに正しい人間ではない。
 イジメの問題やブログの炎上など、構造は不二家事件と根本的には同じように感じる。こいつは悪いヤツだから、いっせいに石を投げろ!という正義をタテマエに、いっせいに石を投げつける。これが今の日本人の体質だ。
 この問題は日本人の宗教観と関わっていると思う。基本的に「神」を意識しない日本人は悪に対して自分が裁くという倫理観を持っているのではないだろうか?しかし、キリスト教やイスラム社会のように、悪を裁くのは神という概念を持っていれば、反応は違うと思う。神=裁き主という概念が無いわが国では、自分=裁き主=神になってしまうということに気がついているだろうか?
 やがて、必ず次の不二家事件は起きるだろう。不正と過失がこの世の中の前提なのだから。雪印事件で学んだことが生かされないとジャーナリストは言うだろう。しかし、雪印事件で学んだ事とは何だ?皮肉をこめて言うなら、私は、失敗をすると徹底的に潰れるまで叩かれる。わが国のマスコミは、世論は、失敗は絶対に許さないということを学んだ。しかし、それでは世の中は変わらないだろう。失敗を知った後、やり直す事を認め、励ます社会を私は見たい。不二家事件がどう落ち着くのかは全くわからないけれど。


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石が叫ぶ [メッセージ]

 帰国して、
 ブログをやめて、
 新しい年を迎えて、

 すぐに、たくさんの時間が流れてしまった。

 また、ありふれた、かけがえのない日常から何気なく考えたことを言葉にして伝えてみようと思う。

 『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』(新約聖書・ルカの福音書19章40節)

 私は石になりたい。真実が語られない時代の中で、叫び続ける石になりたい。


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